ある時、とても大変な目にあった人たちがいました。
その人たちは、とにかく大変。
何が大変なのかわからないくらい大変。
それこそ、頭のいい人たちは、物事を把握しようとしましたが、情報を集められなくて頭を抱えてしまいました。
その大変さは徐々に減っていきましたが、他の何でもない人と比べるといつまで経っても少し大変なのです。
そのとき、遠くにいた大変じゃ無い人たちは何をしていたのでしょう?
たぶん、多くの人が心の中で「大変だなぁ、かわいそう」と思ったでしょう。
一部の人は自分のことではないのに、自分のことのように感じて涙を流したでしょう。
一部の人は何か出来ることはないかと思い、自分の出来ることを考え、行動したでしょう。
一部の人は特に何とも思わなかったでしょう。
あとになって大変だった人たちは考えます。
自分たちが大変だったときに、それ以外の人たちはどれくらい自分たちのことを心配してくれただろう。
どれくらい自分たちのために涙してくれただろう。
どれくらい自分たちのために行動してくれただろう。
どれくらい自分たちのことを何とも思わなかった人がいるだろう。
それは数字ではわかることですが、ひとりひとりのことはわかりません。
なぜなら、力を持っている人はわずかなことをしても、すごく大きな助けになります。
力が少ない人は、精一杯のことをしてもわずかな助けかもしれません。
よく考えれば考えるほどわからなくなるのです。
大きな助けは、みんな実感しました。
じゃあ、少ない助けは?
気付いてすらいないかもしれません。
毎日5分、神さまにお祈りをしてくれた純粋な人がいたかもしれません。
しかし、それは、私たちのところに何かのカタチで届いたのでしょうか?
だんだんに、考えることが悪いことのような気がする人も出てきます。
ただ助けてもらっただけじゃ、すごく申し訳ないから、何か恩返しがしたい。
何か感謝の言葉を伝えたい。
それは、とても良いことなのかもしれません。
しかし、その恩返しや感謝のことばは相手のためになっているのでしょうか?
大変だった人たちは、あのとき、助けられることを望み、より直接的な助けに感動したはずです。
何が自分のためになるか学んだはずです。
ならば、そのお返しをするには、できるだけ相手のためになることを選ばなければいけません。
大変だった人たちはずっと悩みます。
自分のできることの大きさに悩み、貰った気持ちの大きさを図ることに悩みます。
どうお返しすればよいのか悩みます。
人の気持ちはありがたいものです、それ自体には何の疑いもありません。
その結果、ある日、恩返しについて一つのスローガンが生まれました。
「みんな、それぞれ、できることをしよう」
大変だった人たちは、「そうだ、できることでいいんだ」という思いに救われるとともに、何をすればいいか答えのないスローガンに、心の中でとまどいました。
実は、これが大変だった人たちの後々まで残る一番大きな悩みになるのです。
ところがある日、別のところで同じくらい大変なことが起こりました。
さぁ、大変。
大変な人が別のところで、たくさん生まれたのです。
さぁ、大変。
その時、前に大変だった人たちはこんなことを冷静に考えるのです。
前の大変なことと、今回の大変なことは、秤で量ればどのくらい違うのだろう?
私たちはこのくらい助けてもらったんだから、今回はこのくらい助けてあげればちょうどいいんじゃないか。
果たして、私たちは神さまにお祈りをささげて何にだろうか?
いろいろな考えが生まれます。
でも、前の時と違ったことは、前に大変だった人たちは、ほぼ全員が無関心ではなく、何かしらの行動に出たことです。
このようないろいろな考え方は、悪いことではありません。
しかし、この考え方は大体が数字がもとになったものです。
前はそうでない人もたくさんいたのに、数字を信じる人が多くなったことは間違いありません。
そして、前に大変だった人たちは、家族にも誰にも告げず、一人、心の中で思うのです。
「よかった、今回のことで恩返しできるし、どのくらい恩返しすればいいのかもわかる」
そして、前に大変だった人たちの一番大きな悩みが減っていくのです。
これはすべて悪いことではありません。
みんなで人の助け方がうまくなるし、多くの人たちの悩みが軽くなることだから。
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