※ネタバレあります
最近、PSYCHOーPASS(サイコパス)シリーズを見た。
元々、攻殻好きだし、このシリーズも好きだ。
前に見たときは1期が素晴らしくて、他が霞んで見えた。
まず、SFというのは一番に世界観がウリだ。
そして、その社会という不確かなものを舞台に物語が加速する。
つまり、サイコパスで、言えばシビュラシステムという世界の謎と槙島聖護という異端者との戦い。
攻殻SAC1期でいえば、電脳世界と笑い男というもの、それと一緒である。
この構図には視聴者はずるずると引き込まれるのは必然である、一つのSFの理想的な解でもある。
だから2期は霞んで見えるのは仕方ないことだけど、おれはサイコパスにしても攻殻にしても嫌いじゃ無い。というより明確に好きである。
では、2期などが果たすべき役割とは何か、そして1期、2期を超えた先の劇場版の役割とは何か。
この答えは、1期とは全く違うアプローチでもう一つのゴールを求めることであると思う。
その点、サイコパスは、1期で掘り下げた「免罪体質者(AA)の犯罪を裁くすべはあるのか?」とは、大きく違う「集団的サイコパスという概念の認識」がテーマになっている。
しかも、良いところはドミネーターで犯罪計数を測定できないことと、ドミネーターが認識すらしないこと、この二つの似ているようで違う現象を皮切りに物語が紡がれることだ。
真面目な視聴者は、「えっ、それ、どゆこと?」とわくわくしながら物語の世界にはまり込む。
ストーリーのスケール感とかは、やるべきことをやる1期に勝てるわけがないが、そもそも2期とはそうやって楽しむものでは無い。
そして、劇場版も個人的にアリだ。
劇場版は、1テーマにエクスキューズするということが重要だと思っており、それが出来ているからだ。
そして、この劇場版は狡噛慎也というキャラクターのアフターというところに比重が置かれている点も考えれば、半ばファンディスク的内容だ。
このように見れば、どの作品にも意義があるし、否定すべきものは何も無い。
そして、これで本編は終わってしまっても良いと思う。
現代劇でもないわけだから、この世界観で人に訴えかけるべきものは半ば出尽くしたのではないか。
蛇足はいらない。
視聴者もこの世界観が好きなのであれば繰り返し見れば良いのである。
焼き増しのような作品が出ないことを切に願う。
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