忍者ブログ
何かに触れて、その感想がメインの日記
| Admin | Write | Comment |
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
う×ああい
性別:
男性
職業:
専門職で営業畑です
趣味:
飽き性なので特には…
自己紹介:
何か特別なことはなく、日々、人生を消化中
ブログの評価 ブログレーダー
忍者ポイント広告
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
最新TB
最新CM
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「多崎つくる」というキャラクターは非常に村上春樹らしい造形をしていると思う。
もちろん、作者がそうなんだから言うほどのことでも無いが、最近とみに思うのである。

好きでも嫌いでもない村上作品を数年ぶりにとって読んだわけだが、結果は、何も変わらず好きでも嫌いでも無いのである。
読みやすいから箸休めにはちょうど良いというほめ言葉も添えて。

相変わらず、無色透明な人物が淡くファンタジーな世界をゆらりゆらりとたゆたう。
読者の多くは女性なんだろうなと思う。


閑話休題。
さて、この本のタイトルは非常に自分好みだ。
中途半端な年の自分は、最近、まさにこのタイトルのような生活を送っている様な気がする。
自分に色が無いということを自覚し、その色とはなんだろうということを考えながらさまよい歩くのである。
一つの考え方としては、色とはオリジナリティのようにも思うし、パパとかのような属性であるかの用にも思う。
そうなってくると、オリジナリティも属性もそのために獲得するものでは無くて良いとおもうし、そうすれば結果できることと言えば、何かを求めるというよりは、訪ねさまようということだ。
その訪ねさまよう様が巡礼のような気がする。
それを続けることによって何かものになることは無いが、いつの間にか、ちょうど良い場所に導かれる様な気もする。
その結果は、色の獲得ではないけれども、色などという価値観を必要としない自己形成だろう。


最近は悪意の無い生殺し、飼い殺しの刑に処されているように思うので、その状況の改善を望む次第だ。
そのために、相手にプレッシャーを与えたり、きっぱりとノーと答えることは、人間関係を形成する上で、必要な行いだ。
いろいろな人と色々な力関係を形成しているが、その力関係をある種破壊する自己表現は、相手に意思を明確に示せるので、一部の理解の無い人を怒らせはするが、多くの人には受け入れられるものであるように感じる。


PR
ある時、とても大変な目にあった人たちがいました。
その人たちは、とにかく大変。
何が大変なのかわからないくらい大変。
それこそ、頭のいい人たちは、物事を把握しようとしましたが、情報を集められなくて頭を抱えてしまいました。
その大変さは徐々に減っていきましたが、他の何でもない人と比べるといつまで経っても少し大変なのです。

そのとき、遠くにいた大変じゃ無い人たちは何をしていたのでしょう?
たぶん、多くの人が心の中で「大変だなぁ、かわいそう」と思ったでしょう。
一部の人は自分のことではないのに、自分のことのように感じて涙を流したでしょう。
一部の人は何か出来ることはないかと思い、自分の出来ることを考え、行動したでしょう。
一部の人は特に何とも思わなかったでしょう。

あとになって大変だった人たちは考えます。
自分たちが大変だったときに、それ以外の人たちはどれくらい自分たちのことを心配してくれただろう。
どれくらい自分たちのために涙してくれただろう。
どれくらい自分たちのために行動してくれただろう。
どれくらい自分たちのことを何とも思わなかった人がいるだろう。

それは数字ではわかることですが、ひとりひとりのことはわかりません。
なぜなら、力を持っている人はわずかなことをしても、すごく大きな助けになります。
力が少ない人は、精一杯のことをしてもわずかな助けかもしれません。
よく考えれば考えるほどわからなくなるのです。

大きな助けは、みんな実感しました。
じゃあ、少ない助けは?
気付いてすらいないかもしれません。
毎日5分、神さまにお祈りをしてくれた純粋な人がいたかもしれません。
しかし、それは、私たちのところに何かのカタチで届いたのでしょうか?
だんだんに、考えることが悪いことのような気がする人も出てきます。

ただ助けてもらっただけじゃ、すごく申し訳ないから、何か恩返しがしたい。
何か感謝の言葉を伝えたい。
それは、とても良いことなのかもしれません。

しかし、その恩返しや感謝のことばは相手のためになっているのでしょうか?
大変だった人たちは、あのとき、助けられることを望み、より直接的な助けに感動したはずです。
何が自分のためになるか学んだはずです。
ならば、そのお返しをするには、できるだけ相手のためになることを選ばなければいけません。

大変だった人たちはずっと悩みます。
自分のできることの大きさに悩み、貰った気持ちの大きさを図ることに悩みます。
どうお返しすればよいのか悩みます。
人の気持ちはありがたいものです、それ自体には何の疑いもありません。

その結果、ある日、恩返しについて一つのスローガンが生まれました。
「みんな、それぞれ、できることをしよう」
大変だった人たちは、「そうだ、できることでいいんだ」という思いに救われるとともに、何をすればいいか答えのないスローガンに、心の中でとまどいました。
実は、これが大変だった人たちの後々まで残る一番大きな悩みになるのです。

ところがある日、別のところで同じくらい大変なことが起こりました。
さぁ、大変。
大変な人が別のところで、たくさん生まれたのです。
さぁ、大変。

その時、前に大変だった人たちはこんなことを冷静に考えるのです。
前の大変なことと、今回の大変なことは、秤で量ればどのくらい違うのだろう?
私たちはこのくらい助けてもらったんだから、今回はこのくらい助けてあげればちょうどいいんじゃないか。
果たして、私たちは神さまにお祈りをささげて何にだろうか?

いろいろな考えが生まれます。
でも、前の時と違ったことは、前に大変だった人たちは、ほぼ全員が無関心ではなく、何かしらの行動に出たことです。

このようないろいろな考え方は、悪いことではありません。
しかし、この考え方は大体が数字がもとになったものです。
前はそうでない人もたくさんいたのに、数字を信じる人が多くなったことは間違いありません。

そして、前に大変だった人たちは、家族にも誰にも告げず、一人、心の中で思うのです。
「よかった、今回のことで恩返しできるし、どのくらい恩返しすればいいのかもわかる」
そして、前に大変だった人たちの一番大きな悩みが減っていくのです。

これはすべて悪いことではありません。
みんなで人の助け方がうまくなるし、多くの人たちの悩みが軽くなることだから。


自分のことを本気で考えることはできる。
それは自分の感情や状況など検討しうる情報を有しているからだ。

では、他人のことについて本気で考えることは出来るのだろうか?
情報という意味では自分とは違うのだから、ほぼ無いと言えるだろう。
では、有することが出来る情報とは何だろうか?

会話や仕草の断片。
その人の人となりや目標などの、過去や未来。
これだけだ。
本当に少ない。
特にも会う機会の少ない人であればこの情報すら少なく、そして古い。
かといって毎日会っていても有利だといい切れるほどの差異は無い。

こう考えると「思いやり」などというものは、マニュアル化される以外に方法は無いし、配慮などというものは都合の良いエゴである。

では、相手に何かしらをすることはできないのか。
いや、出来る。
それは相手に自分の考えを伝えること、相手に何をして欲しいのかを伺うこと、このようなコミュニケーションに基づいた行動は、たとえ間違っていたとしても相手に誠意というものくらいは伝わると思う。
だが、その行為は積極的に関わることでのみ実現することであるから、さりげない優しさなんてものは相手の誤解によってのみ成立し、狙って出来ることでは無い。

つまり、誰かのことを見ていて切ないとか、こうして欲しいとか、どう考えているんだろうとか、そのた諸々の状況について、何かしたいという気持ちが生まれた場合は、二者択一である。
何もしないか、自分の資源(時間、行動、エネルギー、感情等)を使って関わるか、この二つ。

そういう意味では、家族という制度は機能性を有していると思うし、友人や恋人、同僚、ご近所さんなどという属性も動機付けにはなるものだ。

一人で生きていくには寂しいこの世の中で、人と関わりたくない人間は、辛い。
浅く広く人付き合いしている人間も辛い。
いつか、自分が抱えきれないようなものを背負い疲弊した時に、そばに誰かがいるのといないのでは全然違う。
その時に、誰かに相談できるように、それに耐えうる人間関係を築いておかなければいけない。
とても打算的だと思うが、人間が安定して生きていきたいと思うなら、そういうこともはっきり言って必要だ。
それすらしたくない潔癖は全てを背負い込むしかない、それにも決意が必要で、長く続く恐怖と闘わなければいけない。

相性が悪くなさそうなのに、どう攻めても、イマイチ深い人間関係を築けない場合、それは相手が覚悟を決めた人か、問題を先送りにしている人かどちらかだ。

そんな人の感情を動かすことはとても難しい。
唯一の方法は、自分の度量の大きさをひけらかし、相手に甘い誘惑を仕掛けることだ。
それは、純粋と言える行為では無いが、これしか方法が無いのだから仕方ないだろう。


私の知り合いの中にも、いつ死ぬかわからない病気を抱えている人や、人に近づくと必ず傷つけてしまう人とか、どう見ても一人で生きていくことを覚悟した人間がわずかにいる。
そういう人は、明確に相手に対し、深く交流をしませんというオーラを出している。
間違いがあってはいけないからだ。

また、都合のいいときにあっちからは近づいてくるが、それ以外の時はいつまでたってもはぐらかされて距離が縮まらない人がいる。
これは、一人で生きていく覚悟が出来ていない人だと私は見ている。
これは、実は相手に対しての明確な不義理であるが故、はっきり言って赤の他人よりも迷惑だ。
都合良く人の心をいじって、おもちゃ遊びでもしてるつもりなのか。
それとも、たまに相手に安心感を与えて、自分が相手に貢献しているとでも思っているのか。
何にせよ、今すぐにそういったことはやめた方がいい。

こういうことをはっきり出来ることが大人の作法だと思う。
自分への戒めも込めているが、適切な人間関係を築けるように気をつけたい。




今日、白石一文の「神秘」が文庫になって書店に並んでいた。
白石一文は、上で述べたような人間関係というものについて、強く言及する作家だと考えている。
個人的には、「一瞬の光」、「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」が特にも好きで、その他の作品もほぼ読んでいて好きである。
小説だから当たり前だが、主人公は毎回、誰かと深い関係になり、その泥沼の中でもがくのである。
それを読んでいると人間の業というものを強く感じるし、そのようにしか生きられない人間という存在が愛しく感じるのである。

※ネタバレあります

最近、PSYCHOーPASS(サイコパス)シリーズを見た。
元々、攻殻好きだし、このシリーズも好きだ。

前に見たときは1期が素晴らしくて、他が霞んで見えた。

まず、SFというのは一番に世界観がウリだ。
そして、その社会という不確かなものを舞台に物語が加速する。

つまり、サイコパスで、言えばシビュラシステムという世界の謎と槙島聖護という異端者との戦い。
攻殻SAC1期でいえば、電脳世界と笑い男というもの、それと一緒である。
この構図には視聴者はずるずると引き込まれるのは必然である、一つのSFの理想的な解でもある。

だから2期は霞んで見えるのは仕方ないことだけど、おれはサイコパスにしても攻殻にしても嫌いじゃ無い。というより明確に好きである。

では、2期などが果たすべき役割とは何か、そして1期、2期を超えた先の劇場版の役割とは何か。
この答えは、1期とは全く違うアプローチでもう一つのゴールを求めることであると思う。

その点、サイコパスは、1期で掘り下げた「免罪体質者(AA)の犯罪を裁くすべはあるのか?」とは、大きく違う「集団的サイコパスという概念の認識」がテーマになっている。
しかも、良いところはドミネーターで犯罪計数を測定できないことと、ドミネーターが認識すらしないこと、この二つの似ているようで違う現象を皮切りに物語が紡がれることだ。
真面目な視聴者は、「えっ、それ、どゆこと?」とわくわくしながら物語の世界にはまり込む。

ストーリーのスケール感とかは、やるべきことをやる1期に勝てるわけがないが、そもそも2期とはそうやって楽しむものでは無い。

そして、劇場版も個人的にアリだ。
劇場版は、1テーマにエクスキューズするということが重要だと思っており、それが出来ているからだ。
そして、この劇場版は狡噛慎也というキャラクターのアフターというところに比重が置かれている点も考えれば、半ばファンディスク的内容だ。

このように見れば、どの作品にも意義があるし、否定すべきものは何も無い。
そして、これで本編は終わってしまっても良いと思う。

現代劇でもないわけだから、この世界観で人に訴えかけるべきものは半ば出尽くしたのではないか。
蛇足はいらない。

視聴者もこの世界観が好きなのであれば繰り返し見れば良いのである。
焼き増しのような作品が出ないことを切に願う。


きれいな数字が知りたくて考える。
だが、美的感覚はフィーリングに依る部分も大きく、考えることをやめる。
そして、頭の中で並ぶ数字はいつもきれいではない。

きれいになろうと考える。
それは、表面的に美しくなりたいという願望。
若い女子はもちろんのこと、年老いた男性にもある感覚。
もう少し痩せたいとか、かわいい服が着たいとか、いろいろ。
それらは必ず人から見られることを前提にした発想であり、精神の具現化でもある。
言ってしまえば、メガネからコンタクトに替えて、「ホントのワタシ、デビュー!!」状態である。

春になれば人は変わる。
死の危険すら伴う寒い冬を乗りきり、すっかり安心して寝たら起きたくなくなる。
外を見れば鮮やかな花と、新生活に意欲充填した様々な人の様子。
それを見ていれば自分にも何か起こるんじゃないかと夢想する。

そんなわずかに心躍る季節も80回程度しか巡ってこない人生。
80回といえば、毎日3食たべる人間の1ヶ月の食事回数にも満たない。
人の生きる時間はそれほどに短く、何かをなし得るには足りない。
それが、非常に公平なことだと思うが、寂しいときもある。
そういった相反する感覚を両方もっていられる、ちょうどいい時間。

きれいになろうとした結果は造作的だが、その意識が消えたあたりに自然になるちょうどよさ。
春の時はゆっくりと流れるが、何かを考えるには遅すぎる、そんな季節。
≪ Back  │HOME│  Next ≫

[1] [2] [3] [4] [5]

Copyright c Pilgrim-Fathers-Crew。。All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog / Material By 御伽草子 / Template by カキゴオリ☆
忍者ブログ [PR]