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木曜日の昼が財布を確認した最後の時です。
そして、金曜の夜にスーパーで買い物して財布を開いたらお札のみが消えていました。
約2~3万円でしょう。

いつも数週間に一回しかお金を払い戻さないので、ある程度現金がありました。
困りましたね。
もちろん、そのお金で生活が回らなくなるわけではないですが、少なくはないお金です。

今日あたり、一応警察に届け出ます。
お金が返ってきて欲しいというより、その事実をしかるべき機関に伝えなければ、そもそもあった事実が認定されませんので。

しかし、人の金盗るなんて大したものだね。
相手が不快に思うことは当然だし、自分自身の問題として罪の意識というかそういうものを考えればマイナス要因のほうが多いと思うけど。
ま、それ以上に貧しかったのかな。

前から持論として貧しいことはあまり良くないと言っていますが、まさにそれ。
ただの状態として貧しいことは良くも悪くもありません。
しかし、それは自己完結出来る(納得できる)場合です。
結局、あまして人のお金に手を出しているようではそもそもの人間性からしてどうかと思います。
自分で稼ぐことが出来ない子供は別として、大人というのは収入を得るための準備期間も実際の稼ぐ時間もたくさんあるんですから人のものに手を付けてはいけません。

結局は、自分の管理能力にも問題があったので、それを改善することが自分の出来ること。
だから、あまり引きずることはないでしょうが、こんなつまらないことで、人の意欲にダメージを与えないでくれと強く思います。
予定どおり一日一日をこなすためにこっちは意欲とかのメンタルケアに必死なんだから。

犯人がわからないほうがいいな。
わかればその人を責めなければいけなくなるから。
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昨日、人に言われたんだ。

結婚は大事だと。

特にしなければいけないわけでもないが、普通したほうがいいらしい。

その人は高齢で自分の価値観が古いことを知っているとも言っていた。

だけど、結婚することで人は情緒的にも経験的にも成長するし、そう他人から見られる。

結局、独り者は、そのフィルターをかけて見られるんだよって。



人は情緒的じゃないといけないのだろうか?

人は成長しなければいけないのだろうか?

人は苦労しなければいけないのだろうか?


どっちでもいい気がする。

特にも人から独身者だと差別されることは、相手が自分を図るものさしの話だ。
それで、マイナス評価を下す人はそういう価値観だと言うだけ。
いろんな人がいろんなものさしで人を判断しているうちの一項目に過ぎない。


特に、結婚の要否は考えてないし、未婚批判を批判するつもりはない。
ただ、既婚or未婚という一要素が社会的に大きな要素だということが疑問だ(半分は理解しているが)。

社会学的に歴史をさかのぼれば、特に重要なことでは無いと思うが、HOTな話題なんだね。

夫婦は二人なので、リスク率も高まるが、リスクに直面したときの柔軟性も高まるね。
そもそも、ホントに駄目なときはダメなんだから、諦めるしかないという発想がダメ?

とか、損得計算してる時点でダメなんだね。

一番の利得は、怠惰な人が社会的に責任を負うための動機付けという機能なのかな。

自分の中で流れる時の早さが加速し、少し前のことも、もう思い出せない。

これはみんなそうであるならば、様々な約束や思い出も色あせやすくなるのだろう。

そして、いつか何とも思わなくなり、カレンダーを見ても、はじめから何もなかったかのようにただ通り過ぎるのかもしれない。

もう今年も半年だが、既に起きた様々のことは、もう忘れてしまった。
一年前のことならなおのこと、それより前なら更にそう。
そうやって人はただ、時間の過ぎゆくままに生命が続く限り生きるだけだ。

ただそれだけのことなのに、残したい思いは歴史や伝統、文化などになり、関係ない後から生まれる世代の人生に影響を与える。
そのことに是非なんてものはないが、生命とは他の動物を見てもそうだけど、特に何ということはないんだなと思う。

意味が無いことをそのまま受け取れる人は前向きで、そうでない人は息苦しそうにしているように見える。

 明日は「記憶の渚にて(白石一文 著)」が発売予定だ。

そうやって読みたいと思える本がたまに新しく出る予感があるだけで、未来に対する希望があると思える。
つまり、好きなこと、興味のあることがあるうちは本当の意味での絶望ではない。

 音楽を聴くことも好きだ。

一人で出来ることの良さは、基本的に健康な体さえ有れば、飽きない限り、そのものごとを続けられる可能性が高いことですね。
自分のメッセージを相手に伝えるにはどうしたら良いのだろうか。

まずは、話すことだ。
それ以外にも色々あるんだが今日は無視する。

言葉はすごい。
言葉は意味をもっており、そのとおり受け取っていれば(たまには逆説も想定しなければいけないが)基本的にそのとおり通じる仕組みになっている。

しかし、現実はそうじゃない。
人にはもともと力関係が存在しているし、聞きたい言葉が聞こえる仕組みになっている。
立場が言葉を話し、解釈が自分を欺く。

抑揚の無い言葉は平易な情報でしか無いから、人は声色を操り、身振り手振りを加える。
それは、話している人のあくまでアピールであって、受け取る側は知ったこっちゃないというのが実情というか、とどのつまりの限界である。

物事を決めなければいけなくなったとき、会話は交渉になり、会議という場に発展すれば、つまらない予備情報を省いた言葉の集まりで採決が行われ、議事録という媒体が根拠となる。

そう願って、少なくとも立場の弱い人間は会議に臨んでいると思う(そうでなければあきらめしか無い)が、この世はちゃぶ台返しが横行している。
そもそも会議において力ない者の発言は既に糾弾されているし、その会議外においても実権を持つ者は簡単にひっくり返す。

じゃあ、そもそも会議などする必要なんかないじゃないといえば、必要なのは仮初でも場の合意であるため、会議は続く。
民主主義に見せかけた独裁であることはだれの目にも明らかだ。

そのようなシステムを知りながら、場を制すと言わないまでも、場を牽制することは現状において放棄したくないので、単純に偉くなるという道を選びたくないがゆえに、普段から他人に従属しがたいキャラクタ造形や発言における論理性を、一部の交渉対象者に対する態度として保持しなければいけないと今日強く思った。



悩みに悩んでいた問題があり、期限も迫ってきた。

悩んだ結果、標題のことに行き着いた。


できないこと(できなさそうなこと)に対して向き合い続けることは苦しい。
向き合うことは容易くないができる。
だが、時間とかお金とか感情とか色々消費していることでもあるし、いつかは見切りを付けなければいけないのではないか?という感覚もしばしばである。

その中で、「そろそろ諦めたらいいんじゃないか」という内なる声が聞こえる時がある。
そうすると迷い悩む。
たしかにそうな気もするし、まだ頑張ってもいい気がするし、と。

それで、結局どうなるかというと若いときは諦めやすかった。
かっこ悪いのが恥ずかしいのである。

そして時間が過ぎ、いい年になった今の自分は、相変わらず諦めやすい。
まだ、恥ずかしい部分もあるから。

だが、その一方で、体裁が悪くても頑固な部分も多くなった。
これは、諦めたら、もうある程度の年齢で、自分の今までと今後に絶望するしかなくなるからだ。

この両極端な対応はどちらも良くない。
周りが見えていないし、場当たり的な行動だからだ。
だから、冷静になるために、一回だけ諦めることを忘れてみるのだ。
諦めないのではない、一回だけ諦めをお休みするのだ。

近いうちに答えを出さなければいけないことも多い。
だが、その期限までの限られた時間の中で、決定を一回休むのだ。
それは、決めたときの、割り切った後の感情をわずかに感じることができる。
そうすると、自分はそのことと、どう向き合うべきかという、べき論でなく、どう向き合いたいのか、という心の声を聞くことが出来る。

その一回休みを挟むか挟まないかで、最終的な答えが変わることは少ないようにも思える。
だけど、自分の中で何かすっきりした気持ちを味わえる可能性が大きく上がると思う。


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