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悪いことをしたら、罰を受けた方がいい。
悪事に対して制裁を科すことで得られる効果は、

①自分の中で±がチャラになる(現実はそうでは無いが、そういう気持ちになれるという意味)
②他人(被害者含む)をある程度納得させることができる(人により様々だけど)

大きくこの2つがある。

つまり、罰を受けないことは、自分の中でも、他人に対しても「悪いこと」が残り続けてしまう状況である。
これは本当に不健全だ。

真面目な人がたまたま悪いことをしてしまって、それが罰されなければ、ずっと悩み続けるのでは無いだろうか?

こんな内容を取り上げたのが、「ごめんね青春!」である。

宮藤官九郎脚本のコメディだが、本質的には以上のようなテーマに悩まされ続ける主人公が懊悩する物語だ。

結局、謝る(怒られる)タイミングを逸することにより、より長期に及んで悩み続ける。
これは、悪事に対する制裁の総量として一番重いのでは無いだろうか?
忘れることが無い限り、負い目がずっと残り続けるから。

こんなテーマは、テレビドラマのようなものにはパンチが無く向かないように思う。
しかし、それでもなおを取り上げられたということは、宮藤官九郎、若しくは関係者がこのような体験を何かしらのカタチで知っており取り上げたかったのか、または、このような悩みを抱えている人が多くこの世の中にはいると思ったからかいづれかなのかもしれない。

その意味において、このドラマは自分に気づきを与えてくれるものだったし、満島ひかりが出ていたということで幸福な気持ちになれた。

善悪というものは、単純ではないという認識が当たり前の世の中になったのだろう。
少しずつ世の中は、わかりにくいものを受けいれるようになって行くんだな。



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睡眠+食事+家事+仕事+趣味=全ての時間


もし仮に、この数式が成り立つとして、どのような時間配分をしたいのだろうか?

睡眠は幸せだが、趣味のほうが優先。しかし、健康を維持する程度には寝たい。

食事は、たまに美味しいものが食べられれば、他にこだわりはない。
ちなみに皿洗いはするが、調理行為はほぼ行わない。これは10年以上そうだ。

家事には、ほぼ時間を使っていない。部屋は荒れ放題である。
洗濯は好きだ。

仕事は、必要な気もするし、必要ない気もする。
食べていける賃金と、社会に貢献している自負、やや少なめの人脈があればいい。
でも、たまに楽しいと感じるときもあるが、全体的にサービス残業、休日のサービス労働が常態化していることは良くないと思う。

趣味は、楽しい。特にも一人でやることが好きだ。
まとまった時間が取れたり、使える金が増えれば、もっともっとやりたいことが出てくる。
しかし、細切れの時間とわずかなお金を使っている今は、たまにマンネリ感を感じることも…。
あと、趣味はお金がかかるから、あまり時間がありすぎると貧しくて嫌になることもある。


ここまで検討して気付いたことは、「時間」について考えることは「お金」について考えることだ。(当たり前)
そもそも、時間を労働によりお金に換えて生きているのだから、金がもっと欲しいなら、もっと稼げ。もっと自分の時間を増やしたいなら、お金があれば選択肢が増える。

自分の能力と提供する時間と頂戴する金銭を天秤にかけてまぁまぁ納得(満足ではない)できるから今の仕事をしているのだろう。

つまり、給料を増やしたい場合は、能力を高めるか、時間を多く費やすしかない。
時間とお金が大事なんだから、能力を高めたいと考えるのだが、例えば国家資格を取るには、時間も金もかかる。
また、資格でなくとも勉強するには、多くの時間を要する。

こう考えると、賃金、時間、能力はトレードオフの関係にあり、それを人生を通して好きに配分しなければいけないのだろう。

このような諸問題が発生しないのは、「仕事をしているときが一番幸せ」という状態だろうが、それは所得が低いか、ドMか、勘違いであることは間違いない。
基本的に他人が金を払ってでも手にしたい、資産の譲渡か役務の提供により金銭を手にするだろうから、つまり、嫌なことか難しいこと。
その価値を生むには苦労が無いわけない。

あくまで人並みの能力を有する人間が、自分の好きなように生きたいと思うことは難しい。
苦痛への耐性が強い人間は、それだけで素晴らしい才能だ。

最近は、感情を人に伝えることを心がけている。

そのことにより人との距離感が近くなる。

人からも色々声がけされる。


というような現象が自分の中で起こっている。

そうすると色々と見えてくる。

ジョハリの窓で言えば、「盲点の窓」と言われるもので、自分は気付いていないが、相手は気付いているものである。
これが意外にすごい。

自分が知らない自分というのが思ったよりたくさんあるのだ。
鏡の前で生きている訳では無いので、自分の表情や、仕草、行動など自分が知らず知らず表現していることは多い、みたいだ。

最近も、人に自分では気付いていないとても大事なことを教えて貰った。
そのことについて、他の人も気付いていたかもしれないと思うと、直接的に迷惑をかけた人もいる可能性があり反省。

自分とは全く関係の無い話だが、おそらく世の中の浮気というものは自分は隠せている気持ちでいても、思ったよりバレているのだと思う。


それに加えてジョハリの窓で言えば、未知の窓というものもあるのかと思うと、自分は知らないことだらけだと思うのです。


蛇足だが、最近、自分の周りの人を見ると、嫌いな人もいるが、好きな人もなかなかに多いことに気付いた。
だから、単純に好きな人を増やす可能性を高めるには、今以上に社交的になって人脈を増やしてもいいのではないかと思うときもある。
時間に限りがあるので、なかなかそうはできないし、嫌いな人にあたらないためのターゲティングも必要だけど。



あまりからだが強い方では無い私は、病院通いの日々なのですが、先週も医者に診て貰うことになりました。

私の通う病院はここ一年くらいでお医者様がよく変わっており、先日行ったときもまた先生が替わっていたのです。
初代をA先生、2代目をB先生、3代目をC先生とします。(先生も面倒なので省略)

Aはそこそこベテランで権威がある方でした。
治療方針としては、治癒を目指す方向性で、体調を考慮して薬の増減を変化させており、近年は安定した体調を考慮し、減薬を進めていました。

そのAに長いこと見て貰っていたのですが、諸事情により、Aの意志を継ぐBが担当になりました。
この方はとても若いのに誠実そうに見え(ただの印象)、「がんばって、体が良くなればいいですね!」などと励ますようなタイプの医者だったのです。

しかし、先週からBに代わりCが私の担当になりました。
Cもとても若く、クールな方です。
カルテもパソコン管理で、患者の情報がモニターにでかでかと写っています。
その画面はあまりにも大きく、患者の側からも覗けます。
もちろん何の気無しに見るわけですが、そこには私の持病が列挙されていて、そして今までの治療の経過に対する医師の所感まで記載されていました。
これは、患者から診れば、自分の病状と医師の目算というものをオブラートにも包まず見せつけられることであり、少なからずショックを受けました。

そして、挨拶もそこそこにその医師はこう言ったのです。
「貴方は、この病気を治したいと思いますか?」

驚きました、あけすけなタイプなんだなと思いました。
その後の会話はこんなです。
「治るんなら、直したいですね」
「うーん、現状で不都合があるんでしょうか?」
「薬に副作用とかあるなら気になりますけど…。」
「いやぁね、私は率直に貴方が今の投薬で安定しているように見えるんですよ。変に完治を目指して、揺り返しで更に悪くなる可能性もあるでしょ?だったら、このままでもいいんじゃないかって」
「まぁ、そうおっしゃるんなら…」
「ま、今日は顔合わせですから、次にいらした時に、そこらへん相談しましょ」

というような感じです。
最初はなんだこの医者はと思いました。
不都合はあるよ、生命保険は入れないとかなど。
しかし、1時間もすると見え方が変わってきたのです。
ものごとをズバリ言う人って割と信頼できていいなと。
医者の都合を考えれば、悪化するリスクも無いし、ずっと客であるわけなので、完治しないほうがいいのはわかります。
しかし、私にはどうにもそうは思えないのです。
何か誠意のようなものを感じるのです。

こんなざっくばらんな医者がいるのも悪くないと思いますね。


連休ですが、家でだらだらと本を読む日々であります。
本来であれば、もう少しくらいは華やいだ日を送りたいと、心から思っていたのでありますが、己の心の弱さ故、自己嫌悪に陥りながら、何の行動もすることはできす、結果、本を読んでいるのです。

そもそもスタートからしておかしかったのであります。
いや、本音を申せばそれ以前からでしょう。

4月の中頃、私は「体調が悪い、仕事が忙しい」などと戯言を吐き、2回も約束をブッキングしたのが、そもそものはじまりでありました。
その2回とも、約束を台無しにしたあと、何か酷く後ろめたい気持ちになったことを覚えております。
今回は外してはいけないものでなかったか、となぜか背筋を這う感覚に苛まれました。
そしてそれは今も続いております。

そして3度目の正直と心を改め、連休に入ったか入らぬかの頃にお誘い申したわけでありますが、答えは、些細なことは気にしないと言わんばかりのNoでございます。
想像するところによると、怒らせてしまったのではないかと思います。

こういうときは逆の立場になって考えて見ろとよく聞きます。
そこで、私もそうしてみたのです。
それまでは、体調が悪いはさておき、仕事が忙しいというのはちゃんとした理由になるような気がしていました。
しかし、逆の、つまり、そう言われた立場になってみますと、非常に腹立たしくありました。
約束は約束です、基本的には果たすものでありますし、仮に難しいなら、もう少し誠意を示して謝罪する必要があったように思います。

どうしてこう思うのかと言えば、3度目の約束を不意にされた際、私も非常に腹立たしく思ったからであります。
聞くまではやんわりとその日の約束を取り付けていた気持ちでした。
それで実際その日に様子を聞いてみれば、今日と急に言われても難しいとのこと。
では、明日ならどうかと問えば、明日にならなければわからないとのこと。

実はその時点で私は既に大方怒っていたのですが、我慢しました。
そして翌日連絡がありました。
内容は、今日は仕事が終わりそうに無いから無理とのこと。

仕事が忙しい?何を言っていると正直思いました。
それなら前日頑張るか、後で頑張れ、その調整すらできんのかと思ったのです。
その瞬間、あぁ、自分が申した仕事が忙しいというのは何の理由にもならないな、と自分の行いの愚かさに気付いたのです。
私は、この以前に2回も連続で約束を反故にしました。
なんと愚かなことをしたのでしょうと悔いました。

何とか謝りたいとも思いましたが、誠心誠意物事を申すことに不慣れであります。
不慣れなど理由にならないことも知っておりますがそうなのです。
おそらく、謝れば軽く謝ってしまうことになるでしょう。
なぜなら私が謝るということは、順番の前後はあれど互いに約束を反故にした間柄であるから、相手を責めることにも繋がるのです。

恐らく互いにそのことに気付いているのでしょう、互いに何の連絡も交わしていません。
そのことが、また何かおかしいのです。
お互いに何の連絡も取り合っていないのに何か恐ろしい感覚があるのです。
この感覚にはなぜか信憑性があります。

これらを考えれば、最初に約束を反故にした私の責任が一番大きいのであろうことはわかります。
だからと言って、連絡を取るにしろ、そのことに深く言及することができません。
恐らく、簡単な関係回復を望めばそれは可能でしょうが、何かの遺恨が残るのではないかと思います。
だからといって今のように、何もせず、浅はかな牽制をしているような状態は最悪でしょう。

どうすれば良いのかはわかっておりますので、あとは行動するのみ。
このままでいることは、互いに、自分の器量の無さを示すことであります故。


そんな自分は、文庫で出た白石一文の「神秘」を早速読了し、上巻にあった主人公の「不寛容で怯懦」という言葉が、自分自身のこの胸に深々と突き刺さる矢のようだと感じたのです。


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