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自分のメッセージを相手に伝えるにはどうしたら良いのだろうか。

まずは、話すことだ。
それ以外にも色々あるんだが今日は無視する。

言葉はすごい。
言葉は意味をもっており、そのとおり受け取っていれば(たまには逆説も想定しなければいけないが)基本的にそのとおり通じる仕組みになっている。

しかし、現実はそうじゃない。
人にはもともと力関係が存在しているし、聞きたい言葉が聞こえる仕組みになっている。
立場が言葉を話し、解釈が自分を欺く。

抑揚の無い言葉は平易な情報でしか無いから、人は声色を操り、身振り手振りを加える。
それは、話している人のあくまでアピールであって、受け取る側は知ったこっちゃないというのが実情というか、とどのつまりの限界である。

物事を決めなければいけなくなったとき、会話は交渉になり、会議という場に発展すれば、つまらない予備情報を省いた言葉の集まりで採決が行われ、議事録という媒体が根拠となる。

そう願って、少なくとも立場の弱い人間は会議に臨んでいると思う(そうでなければあきらめしか無い)が、この世はちゃぶ台返しが横行している。
そもそも会議において力ない者の発言は既に糾弾されているし、その会議外においても実権を持つ者は簡単にひっくり返す。

じゃあ、そもそも会議などする必要なんかないじゃないといえば、必要なのは仮初でも場の合意であるため、会議は続く。
民主主義に見せかけた独裁であることはだれの目にも明らかだ。

そのようなシステムを知りながら、場を制すと言わないまでも、場を牽制することは現状において放棄したくないので、単純に偉くなるという道を選びたくないがゆえに、普段から他人に従属しがたいキャラクタ造形や発言における論理性を、一部の交渉対象者に対する態度として保持しなければいけないと今日強く思った。



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悩みに悩んでいた問題があり、期限も迫ってきた。

悩んだ結果、標題のことに行き着いた。


できないこと(できなさそうなこと)に対して向き合い続けることは苦しい。
向き合うことは容易くないができる。
だが、時間とかお金とか感情とか色々消費していることでもあるし、いつかは見切りを付けなければいけないのではないか?という感覚もしばしばである。

その中で、「そろそろ諦めたらいいんじゃないか」という内なる声が聞こえる時がある。
そうすると迷い悩む。
たしかにそうな気もするし、まだ頑張ってもいい気がするし、と。

それで、結局どうなるかというと若いときは諦めやすかった。
かっこ悪いのが恥ずかしいのである。

そして時間が過ぎ、いい年になった今の自分は、相変わらず諦めやすい。
まだ、恥ずかしい部分もあるから。

だが、その一方で、体裁が悪くても頑固な部分も多くなった。
これは、諦めたら、もうある程度の年齢で、自分の今までと今後に絶望するしかなくなるからだ。

この両極端な対応はどちらも良くない。
周りが見えていないし、場当たり的な行動だからだ。
だから、冷静になるために、一回だけ諦めることを忘れてみるのだ。
諦めないのではない、一回だけ諦めをお休みするのだ。

近いうちに答えを出さなければいけないことも多い。
だが、その期限までの限られた時間の中で、決定を一回休むのだ。
それは、決めたときの、割り切った後の感情をわずかに感じることができる。
そうすると、自分はそのことと、どう向き合うべきかという、べき論でなく、どう向き合いたいのか、という心の声を聞くことが出来る。

その一回休みを挟むか挟まないかで、最終的な答えが変わることは少ないようにも思える。
だけど、自分の中で何かすっきりした気持ちを味わえる可能性が大きく上がると思う。


悪いことをしたら、罰を受けた方がいい。
悪事に対して制裁を科すことで得られる効果は、

①自分の中で±がチャラになる(現実はそうでは無いが、そういう気持ちになれるという意味)
②他人(被害者含む)をある程度納得させることができる(人により様々だけど)

大きくこの2つがある。

つまり、罰を受けないことは、自分の中でも、他人に対しても「悪いこと」が残り続けてしまう状況である。
これは本当に不健全だ。

真面目な人がたまたま悪いことをしてしまって、それが罰されなければ、ずっと悩み続けるのでは無いだろうか?

こんな内容を取り上げたのが、「ごめんね青春!」である。

宮藤官九郎脚本のコメディだが、本質的には以上のようなテーマに悩まされ続ける主人公が懊悩する物語だ。

結局、謝る(怒られる)タイミングを逸することにより、より長期に及んで悩み続ける。
これは、悪事に対する制裁の総量として一番重いのでは無いだろうか?
忘れることが無い限り、負い目がずっと残り続けるから。

こんなテーマは、テレビドラマのようなものにはパンチが無く向かないように思う。
しかし、それでもなおを取り上げられたということは、宮藤官九郎、若しくは関係者がこのような体験を何かしらのカタチで知っており取り上げたかったのか、または、このような悩みを抱えている人が多くこの世の中にはいると思ったからかいづれかなのかもしれない。

その意味において、このドラマは自分に気づきを与えてくれるものだったし、満島ひかりが出ていたということで幸福な気持ちになれた。

善悪というものは、単純ではないという認識が当たり前の世の中になったのだろう。
少しずつ世の中は、わかりにくいものを受けいれるようになって行くんだな。



睡眠+食事+家事+仕事+趣味=全ての時間


もし仮に、この数式が成り立つとして、どのような時間配分をしたいのだろうか?

睡眠は幸せだが、趣味のほうが優先。しかし、健康を維持する程度には寝たい。

食事は、たまに美味しいものが食べられれば、他にこだわりはない。
ちなみに皿洗いはするが、調理行為はほぼ行わない。これは10年以上そうだ。

家事には、ほぼ時間を使っていない。部屋は荒れ放題である。
洗濯は好きだ。

仕事は、必要な気もするし、必要ない気もする。
食べていける賃金と、社会に貢献している自負、やや少なめの人脈があればいい。
でも、たまに楽しいと感じるときもあるが、全体的にサービス残業、休日のサービス労働が常態化していることは良くないと思う。

趣味は、楽しい。特にも一人でやることが好きだ。
まとまった時間が取れたり、使える金が増えれば、もっともっとやりたいことが出てくる。
しかし、細切れの時間とわずかなお金を使っている今は、たまにマンネリ感を感じることも…。
あと、趣味はお金がかかるから、あまり時間がありすぎると貧しくて嫌になることもある。


ここまで検討して気付いたことは、「時間」について考えることは「お金」について考えることだ。(当たり前)
そもそも、時間を労働によりお金に換えて生きているのだから、金がもっと欲しいなら、もっと稼げ。もっと自分の時間を増やしたいなら、お金があれば選択肢が増える。

自分の能力と提供する時間と頂戴する金銭を天秤にかけてまぁまぁ納得(満足ではない)できるから今の仕事をしているのだろう。

つまり、給料を増やしたい場合は、能力を高めるか、時間を多く費やすしかない。
時間とお金が大事なんだから、能力を高めたいと考えるのだが、例えば国家資格を取るには、時間も金もかかる。
また、資格でなくとも勉強するには、多くの時間を要する。

こう考えると、賃金、時間、能力はトレードオフの関係にあり、それを人生を通して好きに配分しなければいけないのだろう。

このような諸問題が発生しないのは、「仕事をしているときが一番幸せ」という状態だろうが、それは所得が低いか、ドMか、勘違いであることは間違いない。
基本的に他人が金を払ってでも手にしたい、資産の譲渡か役務の提供により金銭を手にするだろうから、つまり、嫌なことか難しいこと。
その価値を生むには苦労が無いわけない。

あくまで人並みの能力を有する人間が、自分の好きなように生きたいと思うことは難しい。
苦痛への耐性が強い人間は、それだけで素晴らしい才能だ。

最近は、感情を人に伝えることを心がけている。

そのことにより人との距離感が近くなる。

人からも色々声がけされる。


というような現象が自分の中で起こっている。

そうすると色々と見えてくる。

ジョハリの窓で言えば、「盲点の窓」と言われるもので、自分は気付いていないが、相手は気付いているものである。
これが意外にすごい。

自分が知らない自分というのが思ったよりたくさんあるのだ。
鏡の前で生きている訳では無いので、自分の表情や、仕草、行動など自分が知らず知らず表現していることは多い、みたいだ。

最近も、人に自分では気付いていないとても大事なことを教えて貰った。
そのことについて、他の人も気付いていたかもしれないと思うと、直接的に迷惑をかけた人もいる可能性があり反省。

自分とは全く関係の無い話だが、おそらく世の中の浮気というものは自分は隠せている気持ちでいても、思ったよりバレているのだと思う。


それに加えてジョハリの窓で言えば、未知の窓というものもあるのかと思うと、自分は知らないことだらけだと思うのです。


蛇足だが、最近、自分の周りの人を見ると、嫌いな人もいるが、好きな人もなかなかに多いことに気付いた。
だから、単純に好きな人を増やす可能性を高めるには、今以上に社交的になって人脈を増やしてもいいのではないかと思うときもある。
時間に限りがあるので、なかなかそうはできないし、嫌いな人にあたらないためのターゲティングも必要だけど。



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