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あまりからだが強い方では無い私は、病院通いの日々なのですが、先週も医者に診て貰うことになりました。

私の通う病院はここ一年くらいでお医者様がよく変わっており、先日行ったときもまた先生が替わっていたのです。
初代をA先生、2代目をB先生、3代目をC先生とします。(先生も面倒なので省略)

Aはそこそこベテランで権威がある方でした。
治療方針としては、治癒を目指す方向性で、体調を考慮して薬の増減を変化させており、近年は安定した体調を考慮し、減薬を進めていました。

そのAに長いこと見て貰っていたのですが、諸事情により、Aの意志を継ぐBが担当になりました。
この方はとても若いのに誠実そうに見え(ただの印象)、「がんばって、体が良くなればいいですね!」などと励ますようなタイプの医者だったのです。

しかし、先週からBに代わりCが私の担当になりました。
Cもとても若く、クールな方です。
カルテもパソコン管理で、患者の情報がモニターにでかでかと写っています。
その画面はあまりにも大きく、患者の側からも覗けます。
もちろん何の気無しに見るわけですが、そこには私の持病が列挙されていて、そして今までの治療の経過に対する医師の所感まで記載されていました。
これは、患者から診れば、自分の病状と医師の目算というものをオブラートにも包まず見せつけられることであり、少なからずショックを受けました。

そして、挨拶もそこそこにその医師はこう言ったのです。
「貴方は、この病気を治したいと思いますか?」

驚きました、あけすけなタイプなんだなと思いました。
その後の会話はこんなです。
「治るんなら、直したいですね」
「うーん、現状で不都合があるんでしょうか?」
「薬に副作用とかあるなら気になりますけど…。」
「いやぁね、私は率直に貴方が今の投薬で安定しているように見えるんですよ。変に完治を目指して、揺り返しで更に悪くなる可能性もあるでしょ?だったら、このままでもいいんじゃないかって」
「まぁ、そうおっしゃるんなら…」
「ま、今日は顔合わせですから、次にいらした時に、そこらへん相談しましょ」

というような感じです。
最初はなんだこの医者はと思いました。
不都合はあるよ、生命保険は入れないとかなど。
しかし、1時間もすると見え方が変わってきたのです。
ものごとをズバリ言う人って割と信頼できていいなと。
医者の都合を考えれば、悪化するリスクも無いし、ずっと客であるわけなので、完治しないほうがいいのはわかります。
しかし、私にはどうにもそうは思えないのです。
何か誠意のようなものを感じるのです。

こんなざっくばらんな医者がいるのも悪くないと思いますね。


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連休ですが、家でだらだらと本を読む日々であります。
本来であれば、もう少しくらいは華やいだ日を送りたいと、心から思っていたのでありますが、己の心の弱さ故、自己嫌悪に陥りながら、何の行動もすることはできす、結果、本を読んでいるのです。

そもそもスタートからしておかしかったのであります。
いや、本音を申せばそれ以前からでしょう。

4月の中頃、私は「体調が悪い、仕事が忙しい」などと戯言を吐き、2回も約束をブッキングしたのが、そもそものはじまりでありました。
その2回とも、約束を台無しにしたあと、何か酷く後ろめたい気持ちになったことを覚えております。
今回は外してはいけないものでなかったか、となぜか背筋を這う感覚に苛まれました。
そしてそれは今も続いております。

そして3度目の正直と心を改め、連休に入ったか入らぬかの頃にお誘い申したわけでありますが、答えは、些細なことは気にしないと言わんばかりのNoでございます。
想像するところによると、怒らせてしまったのではないかと思います。

こういうときは逆の立場になって考えて見ろとよく聞きます。
そこで、私もそうしてみたのです。
それまでは、体調が悪いはさておき、仕事が忙しいというのはちゃんとした理由になるような気がしていました。
しかし、逆の、つまり、そう言われた立場になってみますと、非常に腹立たしくありました。
約束は約束です、基本的には果たすものでありますし、仮に難しいなら、もう少し誠意を示して謝罪する必要があったように思います。

どうしてこう思うのかと言えば、3度目の約束を不意にされた際、私も非常に腹立たしく思ったからであります。
聞くまではやんわりとその日の約束を取り付けていた気持ちでした。
それで実際その日に様子を聞いてみれば、今日と急に言われても難しいとのこと。
では、明日ならどうかと問えば、明日にならなければわからないとのこと。

実はその時点で私は既に大方怒っていたのですが、我慢しました。
そして翌日連絡がありました。
内容は、今日は仕事が終わりそうに無いから無理とのこと。

仕事が忙しい?何を言っていると正直思いました。
それなら前日頑張るか、後で頑張れ、その調整すらできんのかと思ったのです。
その瞬間、あぁ、自分が申した仕事が忙しいというのは何の理由にもならないな、と自分の行いの愚かさに気付いたのです。
私は、この以前に2回も連続で約束を反故にしました。
なんと愚かなことをしたのでしょうと悔いました。

何とか謝りたいとも思いましたが、誠心誠意物事を申すことに不慣れであります。
不慣れなど理由にならないことも知っておりますがそうなのです。
おそらく、謝れば軽く謝ってしまうことになるでしょう。
なぜなら私が謝るということは、順番の前後はあれど互いに約束を反故にした間柄であるから、相手を責めることにも繋がるのです。

恐らく互いにそのことに気付いているのでしょう、互いに何の連絡も交わしていません。
そのことが、また何かおかしいのです。
お互いに何の連絡も取り合っていないのに何か恐ろしい感覚があるのです。
この感覚にはなぜか信憑性があります。

これらを考えれば、最初に約束を反故にした私の責任が一番大きいのであろうことはわかります。
だからと言って、連絡を取るにしろ、そのことに深く言及することができません。
恐らく、簡単な関係回復を望めばそれは可能でしょうが、何かの遺恨が残るのではないかと思います。
だからといって今のように、何もせず、浅はかな牽制をしているような状態は最悪でしょう。

どうすれば良いのかはわかっておりますので、あとは行動するのみ。
このままでいることは、互いに、自分の器量の無さを示すことであります故。


そんな自分は、文庫で出た白石一文の「神秘」を早速読了し、上巻にあった主人公の「不寛容で怯懦」という言葉が、自分自身のこの胸に深々と突き刺さる矢のようだと感じたのです。


「多崎つくる」というキャラクターは非常に村上春樹らしい造形をしていると思う。
もちろん、作者がそうなんだから言うほどのことでも無いが、最近とみに思うのである。

好きでも嫌いでもない村上作品を数年ぶりにとって読んだわけだが、結果は、何も変わらず好きでも嫌いでも無いのである。
読みやすいから箸休めにはちょうど良いというほめ言葉も添えて。

相変わらず、無色透明な人物が淡くファンタジーな世界をゆらりゆらりとたゆたう。
読者の多くは女性なんだろうなと思う。


閑話休題。
さて、この本のタイトルは非常に自分好みだ。
中途半端な年の自分は、最近、まさにこのタイトルのような生活を送っている様な気がする。
自分に色が無いということを自覚し、その色とはなんだろうということを考えながらさまよい歩くのである。
一つの考え方としては、色とはオリジナリティのようにも思うし、パパとかのような属性であるかの用にも思う。
そうなってくると、オリジナリティも属性もそのために獲得するものでは無くて良いとおもうし、そうすれば結果できることと言えば、何かを求めるというよりは、訪ねさまようということだ。
その訪ねさまよう様が巡礼のような気がする。
それを続けることによって何かものになることは無いが、いつの間にか、ちょうど良い場所に導かれる様な気もする。
その結果は、色の獲得ではないけれども、色などという価値観を必要としない自己形成だろう。


最近は悪意の無い生殺し、飼い殺しの刑に処されているように思うので、その状況の改善を望む次第だ。
そのために、相手にプレッシャーを与えたり、きっぱりとノーと答えることは、人間関係を形成する上で、必要な行いだ。
いろいろな人と色々な力関係を形成しているが、その力関係をある種破壊する自己表現は、相手に意思を明確に示せるので、一部の理解の無い人を怒らせはするが、多くの人には受け入れられるものであるように感じる。


ある時、とても大変な目にあった人たちがいました。
その人たちは、とにかく大変。
何が大変なのかわからないくらい大変。
それこそ、頭のいい人たちは、物事を把握しようとしましたが、情報を集められなくて頭を抱えてしまいました。
その大変さは徐々に減っていきましたが、他の何でもない人と比べるといつまで経っても少し大変なのです。

そのとき、遠くにいた大変じゃ無い人たちは何をしていたのでしょう?
たぶん、多くの人が心の中で「大変だなぁ、かわいそう」と思ったでしょう。
一部の人は自分のことではないのに、自分のことのように感じて涙を流したでしょう。
一部の人は何か出来ることはないかと思い、自分の出来ることを考え、行動したでしょう。
一部の人は特に何とも思わなかったでしょう。

あとになって大変だった人たちは考えます。
自分たちが大変だったときに、それ以外の人たちはどれくらい自分たちのことを心配してくれただろう。
どれくらい自分たちのために涙してくれただろう。
どれくらい自分たちのために行動してくれただろう。
どれくらい自分たちのことを何とも思わなかった人がいるだろう。

それは数字ではわかることですが、ひとりひとりのことはわかりません。
なぜなら、力を持っている人はわずかなことをしても、すごく大きな助けになります。
力が少ない人は、精一杯のことをしてもわずかな助けかもしれません。
よく考えれば考えるほどわからなくなるのです。

大きな助けは、みんな実感しました。
じゃあ、少ない助けは?
気付いてすらいないかもしれません。
毎日5分、神さまにお祈りをしてくれた純粋な人がいたかもしれません。
しかし、それは、私たちのところに何かのカタチで届いたのでしょうか?
だんだんに、考えることが悪いことのような気がする人も出てきます。

ただ助けてもらっただけじゃ、すごく申し訳ないから、何か恩返しがしたい。
何か感謝の言葉を伝えたい。
それは、とても良いことなのかもしれません。

しかし、その恩返しや感謝のことばは相手のためになっているのでしょうか?
大変だった人たちは、あのとき、助けられることを望み、より直接的な助けに感動したはずです。
何が自分のためになるか学んだはずです。
ならば、そのお返しをするには、できるだけ相手のためになることを選ばなければいけません。

大変だった人たちはずっと悩みます。
自分のできることの大きさに悩み、貰った気持ちの大きさを図ることに悩みます。
どうお返しすればよいのか悩みます。
人の気持ちはありがたいものです、それ自体には何の疑いもありません。

その結果、ある日、恩返しについて一つのスローガンが生まれました。
「みんな、それぞれ、できることをしよう」
大変だった人たちは、「そうだ、できることでいいんだ」という思いに救われるとともに、何をすればいいか答えのないスローガンに、心の中でとまどいました。
実は、これが大変だった人たちの後々まで残る一番大きな悩みになるのです。

ところがある日、別のところで同じくらい大変なことが起こりました。
さぁ、大変。
大変な人が別のところで、たくさん生まれたのです。
さぁ、大変。

その時、前に大変だった人たちはこんなことを冷静に考えるのです。
前の大変なことと、今回の大変なことは、秤で量ればどのくらい違うのだろう?
私たちはこのくらい助けてもらったんだから、今回はこのくらい助けてあげればちょうどいいんじゃないか。
果たして、私たちは神さまにお祈りをささげて何にだろうか?

いろいろな考えが生まれます。
でも、前の時と違ったことは、前に大変だった人たちは、ほぼ全員が無関心ではなく、何かしらの行動に出たことです。

このようないろいろな考え方は、悪いことではありません。
しかし、この考え方は大体が数字がもとになったものです。
前はそうでない人もたくさんいたのに、数字を信じる人が多くなったことは間違いありません。

そして、前に大変だった人たちは、家族にも誰にも告げず、一人、心の中で思うのです。
「よかった、今回のことで恩返しできるし、どのくらい恩返しすればいいのかもわかる」
そして、前に大変だった人たちの一番大きな悩みが減っていくのです。

これはすべて悪いことではありません。
みんなで人の助け方がうまくなるし、多くの人たちの悩みが軽くなることだから。


自分のことを本気で考えることはできる。
それは自分の感情や状況など検討しうる情報を有しているからだ。

では、他人のことについて本気で考えることは出来るのだろうか?
情報という意味では自分とは違うのだから、ほぼ無いと言えるだろう。
では、有することが出来る情報とは何だろうか?

会話や仕草の断片。
その人の人となりや目標などの、過去や未来。
これだけだ。
本当に少ない。
特にも会う機会の少ない人であればこの情報すら少なく、そして古い。
かといって毎日会っていても有利だといい切れるほどの差異は無い。

こう考えると「思いやり」などというものは、マニュアル化される以外に方法は無いし、配慮などというものは都合の良いエゴである。

では、相手に何かしらをすることはできないのか。
いや、出来る。
それは相手に自分の考えを伝えること、相手に何をして欲しいのかを伺うこと、このようなコミュニケーションに基づいた行動は、たとえ間違っていたとしても相手に誠意というものくらいは伝わると思う。
だが、その行為は積極的に関わることでのみ実現することであるから、さりげない優しさなんてものは相手の誤解によってのみ成立し、狙って出来ることでは無い。

つまり、誰かのことを見ていて切ないとか、こうして欲しいとか、どう考えているんだろうとか、そのた諸々の状況について、何かしたいという気持ちが生まれた場合は、二者択一である。
何もしないか、自分の資源(時間、行動、エネルギー、感情等)を使って関わるか、この二つ。

そういう意味では、家族という制度は機能性を有していると思うし、友人や恋人、同僚、ご近所さんなどという属性も動機付けにはなるものだ。

一人で生きていくには寂しいこの世の中で、人と関わりたくない人間は、辛い。
浅く広く人付き合いしている人間も辛い。
いつか、自分が抱えきれないようなものを背負い疲弊した時に、そばに誰かがいるのといないのでは全然違う。
その時に、誰かに相談できるように、それに耐えうる人間関係を築いておかなければいけない。
とても打算的だと思うが、人間が安定して生きていきたいと思うなら、そういうこともはっきり言って必要だ。
それすらしたくない潔癖は全てを背負い込むしかない、それにも決意が必要で、長く続く恐怖と闘わなければいけない。

相性が悪くなさそうなのに、どう攻めても、イマイチ深い人間関係を築けない場合、それは相手が覚悟を決めた人か、問題を先送りにしている人かどちらかだ。

そんな人の感情を動かすことはとても難しい。
唯一の方法は、自分の度量の大きさをひけらかし、相手に甘い誘惑を仕掛けることだ。
それは、純粋と言える行為では無いが、これしか方法が無いのだから仕方ないだろう。


私の知り合いの中にも、いつ死ぬかわからない病気を抱えている人や、人に近づくと必ず傷つけてしまう人とか、どう見ても一人で生きていくことを覚悟した人間がわずかにいる。
そういう人は、明確に相手に対し、深く交流をしませんというオーラを出している。
間違いがあってはいけないからだ。

また、都合のいいときにあっちからは近づいてくるが、それ以外の時はいつまでたってもはぐらかされて距離が縮まらない人がいる。
これは、一人で生きていく覚悟が出来ていない人だと私は見ている。
これは、実は相手に対しての明確な不義理であるが故、はっきり言って赤の他人よりも迷惑だ。
都合良く人の心をいじって、おもちゃ遊びでもしてるつもりなのか。
それとも、たまに相手に安心感を与えて、自分が相手に貢献しているとでも思っているのか。
何にせよ、今すぐにそういったことはやめた方がいい。

こういうことをはっきり出来ることが大人の作法だと思う。
自分への戒めも込めているが、適切な人間関係を築けるように気をつけたい。




今日、白石一文の「神秘」が文庫になって書店に並んでいた。
白石一文は、上で述べたような人間関係というものについて、強く言及する作家だと考えている。
個人的には、「一瞬の光」、「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」が特にも好きで、その他の作品もほぼ読んでいて好きである。
小説だから当たり前だが、主人公は毎回、誰かと深い関係になり、その泥沼の中でもがくのである。
それを読んでいると人間の業というものを強く感じるし、そのようにしか生きられない人間という存在が愛しく感じるのである。
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